浦河百話 第一編 明治以前の時代(第一話~第七話)

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黎明期の浦河の浜辺

本編は七話からなっているが、アイヌの伝承が二話、残りの五話がいわば資料によって語られる浦河の昔で、
いくらかでも当時の気分や風景が描き出せればと思っている。
ただ明治以前の浦河のこととなると、語り伝えの範囲を大きく逸脱している。
浦河が北海道でいくら古いといっても、今の浦河人の先祖で江戸までその出自をたどれる家は皆無といってよい。
本編第七話に登場する西田、谷藤両家の話は、そのなかの稀有な例である。
「和人定住の始まり」「浦河神社の絵馬」「正信寺草創の頃」の三話を併せ読んでもらえれば、
浜を中心に展開されていった当時の集落や、働く人びと、下役人、番屋守、商人、帳場、船頭、船乗り、旅僧の姿が見えてくる。
また入江の棒杭に係留されて舫っている千石船、それを取り巻いて荷積みをしている多数の艀(はしけ)、
岸近くの磯では磯舟や丸木船が出て昆布を採っている人びとの姿がある。

こうした風景がいつから浦河の浜で始まったか特定はできない。松前 藩が家来に所領の一部を知行地として渡し、
そこからあがる生産物が 家来の取分という習慣は、十六世紀には始まっていたが、その中に昆布があったことは推測できても、
それはまだメジャーではなかった。三石昆布が主要産物となるのは、
寛永十七年(一六四〇)に噴火湾の駒ケ岳が大爆発を起こした後のことで、十七世紀に入ってからであった。
日高昆布が輸出商品となるのは十八世紀である。

「鷹侍」の一篇はそれ以前の浦河の姿を垣間見せる。十六世紀前半、
まだ人の往来のある浜に較べ、山中深く潜んで人知れず砂金を掘ったり、
鷹を見張ったりする人びとがエゾ地全域で五万人以上もいたという。
日高は砂金地としても名が知られ、キリシタンが砂金掘りに身をやつして日高の地に隠れ住んだ。
こうした人びととシャクシャインの大乱が結びつき、事件は複雑な様相を呈してくる。
乱後、このためにエゾ地全域から砂金掘りは一掃されてしまうが、事件はアイヌたちに後々深い傷跡を残した。

「野深コタンの創世」はアイヌの国造り神話の一つ、「ピシンコタンの黄金伝説」は現代にもつながっている埋蔵金の話である。

なお、本書の文中においては、話者、資料提供者を問わず、敬称を省略させていただきました。
悪しからず御諒承ください。

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