浦河百話 ­第二編 明治の時代(第八話~第三三話­)

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牧歌時代の幕明け

明治という時代は、平成から遠く隔たっていることもあって、何かすべてが霧を透かして眺めるようなもどかしさがある。
海産物に恵まれ、早くから開かれた沿岸に対し、浦河の山野の開拓は明治四年から始まる。九州の天草(熊本)、大村(長崎)からの移民団約四十五戸の杵臼、西舎地区への入植がその始まりだった。
昼なお暗い密林のなかで、熊や狼の出没に怯えながら大木を倒し、鍬を振う。粗末な草小屋で迎えた最初の冬は、南国育ちの彼らにとっていかばかりだったか。いかに開拓使募集の移民団とはいえ、その苦労は筆舌に尽しがたいものがあったろう。日高開発功労者事蹟録の中で、岡本仁五郎はこう結んでいる。
「我々の唯一の楽しみは、酒を飲んで唄うことでありました」
しかし十四年からは、赤心社の移民団が、西舎へ、そして荻伏へと次々に入植。個々の移住者たちの数も増え、ようやく開拓は軌道にのった。うっそうたる原始林は畑となり、暴れ川が治められ、水田が試作される。そして明治四十年。馬産地日高の礎ともなる一万町歩の大種馬牧場“日高種馬牧場”が開設されるのである。
一方、海上は、海産物の運搬のため、早くから函館との間に航路が開かれていたが、積荷の切れる冬から春には船足が途絶え、その結果、移入に頼っていた米、味噌、正油も底をつくといった有様であった。この不便な状況を解決するために、西 忠義ら日高実業協会の尽力で、ようやく定期航路が開設したのが、明治三十五年のことであった。
西 忠義は浦河(日高)支庁長として、また実業協会会長として、任期七年間を粉骨砕身の勤励ぶりで過ごす。特に本編では「日高実業協会」「明治の二つの魂」で西を取り上げる。またその施策のなかから「名産“日高節”」「荻伏小学校学校林」「西舎近藤町のにぎわい」などの物語が生まれている。
入植者や浜での地道な努力は「万太郎と兵堤防」「絵笛愛心講」「黒松が見ていた開拓物語」「水稲事はじめ」「マスの豊漁博打の貧乏」などで詳細に語られている。一方こうした人びとを助けるように「アイヌの薬草と風呂」があり、他方でこの同じ人びとの悪しき側面を際立たせるような「和人から身を守るために」という実話もある。 

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